迷いながらも形にする

 

シルバーから空き缶へ

 

ぼくには好きなブランドが二つあった一つはスターバックス。お洒落なカフェ、統一された企業デザイン、自分のブランドをこんなふうに発展させていきたいって思っていた。

そしてもう一つはセレクトショップであるBEAMS。長渕剛さんの「とんぼ」に“死にたいくらいに憧れた花の都大東京”という歌詞があったがぼくの中ではまさにそんな感じのショップだった。

有名なセレクトショップに選ばれることだけが惨めだった自分の作家人生を意味あるものにしてくれると本気で思っていた。逆転満塁ホームランだ。しかし何度かサンプルで作品を送ったが全く相手にもされなかった。

ある時コンビニでBEAMS雑貨なる本が置かれており購入すると(本当に大好きだったから)ダンボールで財布を作っているというブランドが載っていた。単純にすごくいいなと思った。それと同時にシルバーじゃなくてこっちの路線だったらいけるんじゃないかとわずかに残されていた情熱に火がつき、それなら空き缶を使って何かを作ってみようと思いついた。すごい発想だ。

デザイナー名のマイクは全く謎ですが当時から本名は使いたくなかったもよう。

それで本当にそれなりに形にできたからすごい(執念に笑っちゃう)これはいけるかもしれないと思っていたら友人から空き缶の商標があるからダメだろうと言われてしまった。確かに思いっきり企業ロゴだから不安になり、各社に文面で作品コンセプトと作ろうとしている物の写真を送り可否を問い合わせたところ。当たり前だがほとんどが正式に断られてしまった。

しかしなんと一社(超メジャー)だけは直接電話をくれ使用を可ではなく黙認すると言ってくれた。そしてぼくの仕事がうまくいくことを祈っているとまで言ってくださった。どこの会社か話すとその方の御迷惑にもなるかと思うので控えさせていただきますが本当に嬉しかったです。いつも飲まさせてもらっています。

というわけで数ヶ月かけて作った空き缶アクセサリーは幻となりました。

そして写真を使う

 

どうしたものか悩んでいると友達が自分で空き缶を作れば良いじゃんと冗談を言った。また現実離れしたことをいうやつだな〜と彼の顔を見ていたらピンと閃き写真で好きにプリントした物を代わりに使えばデザインは自由、お客さんからのオーダーも可能になるし、空き缶で作ったアクセサリーの制作方法が流用できるじゃないかと興奮した。

 

試行錯誤しながら数点作ってみると確かな手応えを感じる事ができた。こいつは面白いまた新たなブランドを立ち上げた。

写真というよりもプリントアクセサリーだったのでプリントのアナグラムで「TORINPL」可愛くていい感じだと思っていたけどしばらくしてトリンプという下着メーカーがあると知り戸惑うことになる。

 

ホームページ、ハンドメイトサイト、名刺、チラシを作り当時発売されていた地元密着雑誌のスパイマスターに掲載されているショップに片っ端から郵送。その後に電話フォロー。

チャンスがありBEAMSの人にも見てもらうことができプレゼンもさせてもらった。

だけど全くダメで誰にも相手にもされない。物はそこまで悪くなかったと思うけど評価は他人がするもの。ダメでした。

力不足かまたしても壁を越えられなかった。

何をしてもダメな男の最後の足掻き

 

そこから執念を燃やし写真を切り抜いて立体にするアクセサリーを思いつきこちらも執念で完成させ世に発表した。

 

 

 

 

所ジョージさんの世田谷ベースにも送ってみた。すると番組のコーナーで取り上げてくれ 一緒に送った手紙も読んでいただき想像以上に褒めてもらえた。

ぼくは画面越しにもらったその激励に涙が出た。

しかし持って生まれた星なのか世間の反応は無く作業の大変さとのギャップに疲れ散々足掻いたが次第にそれを作るのを辞めた。

そして思うようにアクセサリーを作れない日々が続いた。

それでも惰性なのか彫金机に座り何とか原型だけ作っていたけどゴム型取って量産するまでがいけない。

それはたぶん本当に作りたい物じゃなかったからだと思う。

強烈に覚えている事がある、家に届く通販カタログ。そこにご婦人がつけるような安い指輪がずらりと並んでいた(金ピカ系のも)。それを見てね、自分が作っている物とこの安物の指輪の何が違うのかわからなくなてしまった。

また車のちょっとイカツイ系のホイールのデザインを見ても同じことを考えていた。世界にはデザインが溢れている。

自分が一生懸命作っている物は所詮この程度のことなんだという事実に愕然とした。

足掛け16年ぼくは次第に原型すら作れなくなっていった。

16年目の挫折

 

物を作るって一言で情熱がいる。その情熱って燃料みたいなものでどんどん減っていく。だからそれを補充しなくちゃいけない。何で補充するかといえばそれは結果だ。

最初うまく作れた喜びという経験、その手応えから始まり技術が上がっていく。

褒められるとぼくすごい嬉しくてさ。本当に。そのたびに燃料が満たされて頑張れた。結果がぼくを勘違いさせてくれた。

でもなんだろう、いつまで経っても辞められない仕事、変わらない環境、アクセサリーのお店に置いてもらえるように動いた営業では辛辣な言葉もあびた。その都度失っていく自信。

何年も何年も同じ場所で繰り返すうちに勘違いから目が醒め始めてしまった。もうアクセサリーで夢が見られなくなってしまった。

今だからわかるんだけどきっとぼくは根本的なところでアクセサリーが好きだったんじゃ無いと思う。この技術、センスで認められたかっただけで、ただ居場所が作りたかったんだって思う。

 

強みの上に築け

 

そんな2016年10月。ぼくの誕生日祝いを兼ねて飯でも奢ると兄貴に誘われ名古屋へ。かなり遠くどこに連れて行くのかと思っているとただ遠いだけでどこにでもあるようなラーメン屋だった。

この日は遠くの場所では無いといけない理由があったのだ。どこかのタイミングで「絵を描いてみないか?」と兄が切り出した。

絵を描く気なんてさらさらなかったぼくは何を言っているのかと思ったが構わず続ける兄「お前が本当に才能があるのは絵だ」と真剣に続ける。「下手くそだが味がある」と。

アクセサリーを完全に捨ててという下りにそんなことできないと思う、わずかな抵抗(執着心)もあったけど、なんだろうこの日は普段人の意見を聞かない自分だがビックリするほどすんなり言葉が心に入ったのを覚えている。

絵は子供の時は好きだった。描けば家族や友達、学校の先生にも褒められていたことを思い出す。でも年齢を重ねるうちに上手い人達を見てその道を早々に通行止めにしてしまっていた。

ぼくは板で閉ざされた炭鉱の入り口に釘抜を持って立ち一枚ずつ取り外し中に入った。

絵なんてアクセサリーのデザインをする時に描くくらいでどれだけぶりだろう?でも久しぶりに描いてみると下手くそではあるんだけど久しぶりに楽しく制作をする事ができた。

そしてそれから三年が過ぎた。今も何も生活は変わってはいない、けど描き続けている。

いきなり毎日描くと決めた「MON MON MONSTER」も1200話を越えた。自分が経験してきた感情がストーリーに生かされていると思う。情けなさは今ではぼくの財産だ。その財産は今なお貯蓄中だけどね。

以前書いたドラッガーの「強みの上に築け」という教え。アクセサリーというジャンル自体強みでは無かったんだと思う、ぼくの強みは絵だったのだろう。少なくとも今はそう感じている。今は絵に勘違いをしているし夢を見ている。

願わくばこの勘違いが覚めずに自分の人生を終えたい。ここがぼくの居場所になれば嬉しい。

 

 

著者後書き

 

そんなわけでぼくのアクセサリーヒストリーは終わります。

売れているアーティストの売れていない時代の苦労話を聞いて下積み2、3年くらいだとそっとテレビを消してしまいます。

自分の過ごした時間を数えてしまいます。

それでもその若い彼らが歌う曲が心に染みる自分がなんだか情けなくてさ。嫌になっちゃうね。

続けていればとか、夢は必ず叶うとか、そんなことはとてもぼくは言えないけれど、瞬間瞬間大切な今を全力でやってきたことは事実で、そこだけは自分で自分を褒めてやりたい気持ちがあります。

最後にぼくが好きな映画の言葉を引用して終わります。ぼくはいつもこのイメージで物作りをしてきた気がします。

それは「ルパン三世カリオストロの城」でルパンとクラリスのシーン。全力で助けに来たけど今は助けられないルパンが正直に言います

「今はこれが精一杯」

これからも精一杯を続けていきます。

長くなってしまったし期間も開いてしまったけどご覧いただきありがとうございました。頑張ります。

 

2020・3・7

jon covet

 

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